衛星を介して安全をつなぐ。大陸間の量子暗号通信を目指す東芝ケンブリッジ研究所の挑戦

2026/03/31 Toshiba Clip編集部

この記事の要点は...

  • ポスト量子時代に向け、データの盗聴を防ぐ量子暗号通信の重要性が高まっている
  • 光ファイバーの限界を超え、衛星を介して大陸間を結ぶ「衛星QKD」というソリューション
  • 東芝の四半世紀にわたる研究が結実した「高速・小型化」の衛星QKD送信機の開発と地上実証の成功
衛星を介して安全をつなぐ。大陸間の量子暗号通信を目指す東芝ケンブリッジ研究所の挑戦

現代社会に欠かせない金融、医療、重要な社会インフラに関わる様々なデータ。その安全を裏で支えているのは、データを守るために「鍵」で暗号化する技術だ。しかし、今その鍵が、かつてない危機を迎えている。

圧倒的な計算能力を持つ「量子コンピューター」の登場だ。現在の安全対策を支えている計算量の壁を、わずかな時間で突き破ってしまう可能性を秘めたこの次世代技術は、デジタル社会の信頼基盤を根底から揺るがしかねない。
こうした「ポスト量子時代」の脅威に対し、東芝が四半世紀にわたって磨き続けてきたのが、QKD(量子鍵配送)を中心とした量子暗号通信である。

2026年1月、東芝は、大陸間をまたいで安全に通信をつなぐための技術として「衛星搭載用QKD送受信システム(以下、衛星QKD)」の開発と、地上での実証の成功を発表した。この発表は、宇宙環境での運用を想定したQKDシステムが、地上の光ファイバーを用いたQKD(以下、光ファイバーQKD)とシームレスに連携できることを証明したというもので、衛星QKDの実現に向けた大きな一歩を示す。
宇宙へと広がる量子暗号通信の最前線で、あくなき探究を続ける研究者たちの取り組みと、彼らが描いている未来像に迫った。

QKDはなぜ宇宙へ向かうのか――大陸間通信を阻む壁

「ポスト量子時代」におけるセキュリティとして期待されるのが、QKDである。これは、光の最小単位である「光子」に、データを暗号化・復号化するときに使う鍵(量子鍵)を乗せて運ぶ技術だ。量子力学の原理に基づき、途中で鍵が盗まれたかどうかが理論上必ず検知できるため、安全が担保されている。

光ファイバーQKDの概略図
光ファイバーQKDの概略図

東芝はこの分野において、長年にわたる研究の蓄積を持っている。1991年にイギリス・ケンブリッジ研究所を設立して量子技術の研究をスタートし、1999年には量子暗号通信の研究を本格化させた。四半世紀に及ぶ知見の積み重ねにより、現在は日本やイギリス、アメリカ、シンガポール、韓国での量子ネットワークの実証実験を進めており、フランス・パリでは2025年に商用サービスを開始するまでに至っている
しかし、実用化が進むほどに、一つの大きな課題が鮮明になっていた。

光ファイバーQKDでは、距離とともに光子の損失が増大する。QKDは理論上、コピーや増幅ができないため、光ファイバーのみでは数百kmを超える長距離通信が困難なのだ。陸上では光ファイバーQKDの送受信システムを数珠つなぎにして長距離通信を可能とする工夫がされているが、海中では難しい。その結果、せっかく築いた都市や国家レベルの量子ネットワーク同士を、光ファイバーで大陸をまたいでつなぐことは現実的ではないという課題が残されていた。

「東芝はすでに、光ファイバーQKDによって都市や国をカバーできる量子ネットワークをいくつも実現しています。しかし、世界各地の量子ネットワーク同士を海を越えてつなぐとなると、海底ケーブル(光ファイバー)にQKD用の中継器を設置する必要があり、現在の技術では現実的ではありません。陸上に築いた安全なネットワーク同士をどうつなぐか。そのミッションに対する最も有望な解決策が、宇宙空間を利用する『衛星QKD』だったのです」
そう解説するのは、東芝欧州社のケンブリッジ研究所で衛星QKDの研究開発チームをリードするThomas Roger氏だ。

東芝欧州社 ケンブリッジ研究所 Thomas Roger氏
東芝欧州社 ケンブリッジ研究所 Thomas Roger氏

衛星QKDでは、地上と衛星の間を光子が飛び交う。光を遮るもののない真空の宇宙空間は、光ファイバー内と比べて光子の減衰が極めて少なく、長距離であっても衛星は地上まで量子情報を送信することができる。適切な光学設計と追尾技術を用いることで、衛星は世界中の地上局と量子鍵を共有し、数千kmといった距離が離れている地上の量子ネットワーク同士をつなぐ量子暗号通信のハブになり得るのだ。

衛星QKDの概略図
衛星QKDの概略図

衛星QKDの研究開発は、イギリス以外にも日本や様々な国で行われている。ただ、その実装には、宇宙ならではの厳しい制約が立ちはだかる。低軌道衛星の場合は、猛スピードで地球を周回しており、地上局の上空を通過する時間は、わずか数分に限られるからだ。その短い時間内に、商用利用に耐えうる十分な量の量子鍵を送り届けなければならない。さらに、衛星に機器を搭載するためには、限られたスペースや重量の制限をクリアする圧倒的な「小型化・軽量化」も求められる

ケンブリッジ研究所の副所長を務める小坂谷達夫氏は、「大陸をまたぐ量子ネットワークを実現する上で、衛星QKDは不可欠な技術だ」と強調する。

「最初に構想を聞いたときは、私自身も『本当にできるのだろうか』と感じたほど、夢のような技術でした。しかし、重要なデータを世界中どこへでも安全に送れる社会をつくることは、今後ますます重要になります。衛星QKDは、これまで点在していた地上の量子ネットワークをつないで、世界中で量子暗号通信を実現するための現実的な選択肢なのです」(小坂谷氏)

東芝欧州社 ケンブリッジ研究所 小坂谷達夫氏
東芝欧州社 ケンブリッジ研究所 小坂谷達夫氏

量子暗号通信が地上から宇宙へと広がろうとしている背景には、「より遠くへ、より確実に、安全を届ける」という切実な課題がある。その次の一手として総力を挙げて挑み、大きな結実を見たのが、この衛星QKDなのだ。

量子ネットワークを「つなぐ」挑戦――ケンブリッジ研究所に知性と熱量が集う

衛星QKDは、決して突発的に生まれたプロジェクトではない。長年の研究で培われた東芝の知見が、社会課題を解決するためのアプローチへと進化したものだ。
中核を担うケンブリッジ研究所は、光ファイバーQKDを中心とした技術を四半世紀にわたり磨き上げ、世界各国の主要都市で量子ネットワークの実証を成功させてきた。

Roger氏は、研究の蓄積と錬磨の重みを語る。
「私たちが取り組んだ高精度なレーザー制御や光学設計は、決して一朝一夕で成し遂げられるものではありません。長年の地道な研究の積み重ねがあったからこそ、衛星QKDという次のステップへ踏み出せているのです」

Roger氏

多岐にわたる技術の結晶化を支えたのは、ケンブリッジ研究所の多様な人材だ。光学設計、レーザー制御、信号処理――。衛星QKDは、これら複数の高度な専門知が結集して初めて成立する。

「ここには衛星QKDだけでなく、デバイス、チップ開発、ソフトウェア、ネットワーク設計など、幅広い分野のトップクラスの研究者が集まっています。何か課題があれば、分野を越えて即座に議論し、助け合える。そうしたオープンな文化が私たちの最大の強みです」と小坂谷氏は語る。

開発を後押しするのが、ケンブリッジ研究所の立地だ。この地は「シリコン・フェン(Silicon Fen)」と呼ばれ、数千社以上のテクノロジー企業が集積するヨーロッパ最大級のハイテク拠点として知られる。イギリス版シリコンバレーとも称されるこのエコシステムの中で、メンバーは基礎研究から社会実装までを一貫して見据えている。

「こうした研究体制や文化が、歳月をかけて醸成されてきたことを感じます」と語るRoger氏の言葉通り、大陸間をまたぐ量子ネットワークの構築というチャレンジの裏には、この拠点で育まれた強固な研究基盤と、分野横断型のチーム力が息づいている。

ラボからフィールドへ――研究者の「夢」を現実に変えた実証

研究がラボからリアルの環境へと踏み出した、重要なステップがある。舞台となったのは、イギリス・エディンバラにあるヘリオット・ワット大学の光学地上局(HOGS)だ。天体観測用の望遠鏡が設置された環境で、その実証は行われた。これまで精密に制御されたラボ環境で磨き上げてきた衛星QKDの送受信システムを、屋外の実環境へ持ち出したのである。

ヘリオット・ワット大学の光学地上局
ヘリオット・ワット大学の光学地上局
ヘリオット・ワット大学の光学地上局で実証実験をしている様子
ヘリオット・ワット大学の光学地上局で実証実験をしている様子

2026年1月に発表されたこの成果は、東芝が積み上げてきた技術蓄積の集大成と言えるものだ。衛星が地上局の上空を通過するわずかな時間に大量の量子鍵を送るべく、1GHzの高速通信を実現。さらに、低軌道衛星への搭載を容易にするべく、世界トップクラスのコンパクトかつ軽量な設計(20×10×10cm・1.6kg)を両立させたQKD送信機の開発に成功した。これにより、宇宙という極限環境での実用化へ向けた大きな前進を果たしたのだ。さらに、生成した量子鍵を標準プロトコル(ETSI標準)によって、地上の量子ネットワークへシームレスに連携できることも証明した。

※ 「高速・小型化を実現した衛星搭載用QKD(量子鍵配送)送受信システムの開発に成功」
https://www.global.toshiba/jp/technology/corporate/rdc/rd/topics/26/2601-02.html

東芝が開発した、世界トップクラスのコンパクトかつ軽量な設計(20×10×10cm・1.6kg)を両立させた衛星搭載用のQKD送信機
東芝が開発した、世界トップクラスのコンパクトかつ軽量な設計(20×10×10cm・1.6kg)を両立させた衛星搭載用のQKD送信機

「それまでは、あらゆる条件が制御されたラボ内での実験でした。しかし、実際の光学地上局においても、望遠鏡を通じて量子鍵を受信し、システムが正しく動作することを確認できました。暗号化されたロゴ画像が約1km離れたラボへとつながり、元通りの姿で画面に表示されたのを、ほぼ完全な暗闇に包まれたドームの中で同僚たちと座りながら見ました。あの瞬間は、私たちにとって何物にも代えがたい『忘れられない瞬間(A memorable moment)』でした
Roger氏は、理論が現実のものとなった際の手応えを、研究者としての高揚感とともにそう振り返る。

衛星QKDシステムにより暗号化されたロゴ画像が復号できたことを示す画面
衛星QKDシステムにより暗号化されたロゴ画像が復号できたことを示す画面

今回の実証では、地上のネットワーク上で送った暗号化したデータを、別途光子に乗せて送っていた量子鍵を用いて、正しく元の状態へ戻せる(復号できる)ことが確認された。実環境下での動作を証明したこの成果は、衛星QKDが社会実装へ向けて確実に前進していることを示している。

ラボからフィールドへ。衛星QKDは、単なる研究の対象から、未来のインフラを支える実体へとその姿を変えつつある

そして、宇宙へ――量子暗号通信が描く「信頼」の未来

衛星QKDの研究は、単なる技術的な挑戦に留まらない。その先にあるのは、デジタル社会の基盤となる「信頼」をいかにして守り続けるか、という問いへの回答だ。

いまやデータは現代社会を駆動する血液であり、金融取引や医療、エネルギー制御から行政サービスに至るまで、あらゆる営みがネットワークを介して行われている。クラウドやAIの高度化により、その価値と機密性は今後さらに増大していくことは疑いようがない。

小坂谷氏は、研究の核心にある危機感と意義をこう語る。
「データの信頼性がひとたび揺らげば、今の社会は成り立たなくなるでしょう。すべての通信を置き換えるわけではありませんが、重要性の高いデータを大陸間で安全につなぐ。その基盤技術として、衛星QKDは不可欠な役割を担っていくはずです」

小坂谷氏

衛星QKDは、点在する地上のセキュアなネットワークを統合し、真に安全なグローバル・インフラへと昇華させるための、重要なピースなのだ。

東芝は今後、2027年度の低軌道衛星と地上局間の長距離通信実証を見据え、研究のステップを具体化させていく予定だ。宇宙環境への耐性評価や、昼夜・気象条件に左右されない安定運用の検証など、実用化に向けたハードルは依然として高い。

しかし、その最前線に立つRoger氏の言葉には、確かな熱量がこもる。
「自分が設計したものがロケットで打ち上げられ、宇宙で動くのを見てみたい。量子力学と宇宙工学が交差するこの分野は、研究者として非常に刺激的です」

Roger氏

最先端の物理学と宇宙工学が融合し、社会の信頼を支える実用技術へと結実していく。その挑戦の現場には、純粋な好奇心と情熱がある。

小坂谷氏は俯瞰(ふかん)した視点から、こう締めくくった。
「衛星QKDは、決して単独で存在する技術ではありません。ケンブリッジ研究所で長年積み重ねてきた量子研究の土台があり、分野を越えた連携があり、社会実装を見据えたネットワーク全体の設計があります。その一歩ずつの延長線上に、今の挑戦があるのです」

東芝が掲げる「人と、地球の、明日のために。」という経営理念。その下で、データの安全を守るための「鍵」は今、地上から宇宙へと広がり、世界をひとつにつなごうとしている。

小坂谷氏とRoger氏

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