水道水の品質を「光」と「AI」で守る──異分野の才能が交差して生まれた、次世代の藻類監視

2026/05/22 Toshiba Clip編集部

この記事の要点は...

  • 浄水場を悩ませる「藻類」の大量発生。現在、その対処は熟練検査員の「匠(たくみ)の技」が支えている
  • 光学の若手技術者と画像認識AIのベテランの異分野連携が生み出す「藻類判別」のイノベーション
  • 浄水場にとどまらず、水源を含めた上流側までを対象とした管理への応用も視野に
水道水の品質を「光」と「AI」で守る──異分野の才能が交差して生まれた、次世代の藻類監視

蛇口をひねれば当たり前のように流れ出る、清浄な水。その「当たり前」を維持するために、人知れず過酷な闘いを続けている人々がいる。浄水場では、熟練の検査員が水の中に潜む数ミクロンの藻類を、一つ一つ見分けて数えているのだ。東芝は今、極めて専門性の高い熟練者の技能に支えられてきた工程を、次の段階へ進化させようとしている。これは、「社会の生命線」である水道水を守るために立ち上がった技術者たちと、彼らが開発した「藻類判別技術」が切り拓く、浄水場の運転管理および水質管理の高度化の未来をめぐる物語である。

水道水の品質を支えるための「見えない藻類」への取り組み

浄水場にとって、夏は警戒すべき季節であるという。それは、気温が上昇し、水源となる河川や湖沼やダムで藻類が大量発生することがあるからだ。藻類そのものは自然界に不可欠な存在だが、浄水の過程においては、時に牙をむく。
「アナベナ」などの藍藻(らんそう)は、水道水にカビ臭のような異臭味をもたらす。また「シネドラ」といった珪藻(けいそう)は、季節に関わらず、浄水場のフィルターである「ろ過池」を目詰まりさせ、処理機能を停滞させてしまうことがある。国内の水道事業体の多くがこうした藻類による「生物障害」に悩まされている

「藻類による生物障害に対応するため、毎年多額の薬品費用がかかっています。そして何より人的な負担の増大が深刻な課題となっています」
そう語るのは、東芝 総合研究所の野田周平氏だ。

株式会社東芝 総合研究所 インフラシステムR&Dセンター 自動化・画像応用システム技術開発部 画像応用システム技術開発担当 野田周平氏
株式会社東芝 総合研究所 インフラシステムR&Dセンター 自動化・画像応用システム技術開発部 画像応用システム技術開発担当 野田周平氏

現在、この被害を抑えるための確実な手段は、熟練の検査員による目視での検査(生物試験)だ。浄水場や水源などの水を採取し、顕微鏡で藻類の種類と数を特定する。増えている藻類の種類と量を正確に把握することで、効果のある薬品注入の判断精度を高め、状況に応じた運転対応を選択することが可能となる。
 
しかし、これには極めて高度な専門知識と膨大な時間を要する。一つの検体を調べるのに数時間を費やすことも珍しくない。そして、この分野でも専門家の高齢化が進み、担い手が不足していくという現実から逃れることはできない。浄水プロセスを「匠の技」に頼る運用は、今まさに対策を求められている。

この「匠の技」をデジタル化し、自動化できないか。それまでビルソリューションにおける画像認識AIの開発に携わってきた野田氏はこの難題に取り組んだ。

AIで藻類の画像認識をしている様子
AIで藻類の画像認識をしている様子

「水道事業の現場が抱える課題を聞いたとき、自分の培ってきた技術が社会の最も根源的な部分で役に立つはずだと確信しました」と野田氏は振り返る。

しかし、彼を待ち受けていたのは、それまでのキャリアで経験したことのない、自然界という名の極めて複雑で多様な対象だった。
野田氏はまず、従来の光学顕微鏡で撮影した画像をAIに学習させることから始めた。しかし、すぐに大きな壁にぶつかる。水の中に潜んでいたのは藻類だけではなかったのだ。
顕微鏡越しにのぞいた水の中には、砂、ゴミ、微生物の死骸など、無数の「浮遊物」が存在している。そうした無数の浮遊物にAIはいとも簡単にだまされてしまった。

「形状が似ているゴミと藻類を区別することが難しかったのです。同じ種類の藻類であっても、成長段階や水の濁り具合によって、顕微鏡越しの見え方は千差万別なのです」
野田氏は当時の落胆を思い返しながら語った。

形だけで判別する従来の手法では、現場で使えるレベルの精度には到底届かないことを思い知らされたという。どれほどアルゴリズムを改良しても、熟練の検査員が持つ「色味のわずかな違い」や「質感」を見分ける直感には及ばない。プロジェクトは一時、停滞の危機に陥った。

入社間もない若手技術者がもたらした光

その停滞を打破したのは、一人の若手技術者だった。入社間もない橋本勇太氏がチームに合流したのだ。橋本氏は学生時代から光学を専攻しており、東芝では主に上下水道向けの診断技術の開発を担当することになった。

株式会社東芝 総合研究所 インフラシステムR&Dセンター 産業システム・材料技術開発部 材料分析・診断技術開発担当 橋本勇太氏
株式会社東芝 総合研究所 インフラシステムR&Dセンター 産業システム・材料技術開発部 材料分析・診断技術開発担当 橋本勇太氏

ベテランの野田氏に対し、橋本氏は文字通り「異なる眼」を持っていた。野田氏が「撮影した画像をどう処理するか」を考えるソフトの専門家なら、橋本氏は「いかにして撮影対象の本質を映し出す光を当てるか」を考えるハードの専門家だった。

顕微鏡の光学系を調整している様子
顕微鏡の光学系を調整している様子

橋本氏は入社後、9色のLED光源を備えた「マルチスペクトル顕微鏡」を開発した。従来は「形」で藻類を判別していたが、このマルチスペクトル顕微鏡では「色(スペクトル)」で藻類を判別する。

「藻類はそれぞれ固有の色素を持っています。ならば、その色素が最も反応する特定の波長の光を当てれば、ゴミと藻類、さらには藻類同士の種類も分離できるのではと考えました」
開発当時のことを橋本氏はそう振り返る。

光学設計によって、425ナノメートルから740ナノメートルまでの9色の波長を瞬時に切り替えながら撮影することで、人間の目には見えない藻類のスペクトル情報を抽出することに成功したのだ。

スペクトル画像を取得するマルチスペクトル顕微鏡
スペクトル画像を取得するマルチスペクトル顕微鏡
AIで判別した藻類。形状情報だけでなく、スペクトル情報も用いることで藻類の判別精度が向上した
AIで判別した藻類。形状情報だけでなく、スペクトル情報も用いることで藻類の判別精度が向上した

橋本氏の光学技術による「新しいデータ」が、野田氏のAIに劇的な進化をもたらした。色情報で大枠の種類を絞り込み、形情報で細かな属名を特定する。二人の専門性が交差した瞬間、それまで超えられなかった判別精度の壁が崩れ去った。

さらに、チームにはもう一つの物理的な壁があった。それは「流れている水中の藻類をどう撮影するか」だ。
顕微鏡で連続的に水を監視するためには、ポンプなどで水を流し続ける必要がある。しかし、流れる水をそのまま撮影すると画像中の藻類はブレてしまい、精緻な数ミクロンの藻類の形状とスペクトルの情報を得ることができない。かといって、撮影のたびにポンプを止めていては時間がかかってしまい水を連続的に監視できない。そこで考案したのは、撮影する際に一瞬だけ水流を静止させる独自の流路機構だった。

「流しながら、止める。矛盾するような要求を、ポンプによる通水とバルブによる水の静止を組み合わせた流体制御により、藻類が静止するまでの時間短縮を実現して解決しました」と橋本氏は説明する。

これにより、常に水を流路に取り込みながら、顕微鏡の前ではぴたりと止まった静止画を連続的に撮影し続けることが可能になった

水を自動かつ連続で撮影し続けるための試作機。マルチスペクトル顕微鏡が搭載されている
水を自動かつ連続で撮影し続けるための試作機。マルチスペクトル顕微鏡が搭載されている

ハードとソフトがかみ合い始めたチームに、最後の、そして最も過酷な壁が立ちはだかった。それは「学習データ」の圧倒的な不足だった。AIの精度を上げるには、AIが藻類の種類や数を学習するための様々なパターンの藻類画像が必要だった

野田氏と橋本氏は、2年以上にわたって水を測定し続けた。時には全国から水の提供を受けることもあった。暑い日も寒い日も、現場から届く水を一つ一つ撮影し、AIの学習データを増やしていく。気の遠くなるような作業を続けて行った。
そして、珍しい種類の藻類を見つけたときは実験室で培養し、その藻類の画像をいつでも撮影できるようにした

実験室で藻類の培養状態を確認している様子
実験室で藻類の培養状態を確認している様子

苦闘の末に完成した技術は、自動かつ連続で、生物障害の要因となる藻類を高精度に判別することを可能にした「匠の技」は、機械の中に確実に継承されたのだ。

「当たり前」を未来へつなぐために

しかし、彼らの視線はすでにその先に向けられている。野田氏は、自ら生み出した技術の未来について、静かな自信をのぞかせながら語った。
今後は、この装置を浄水場にとどまらず、ダムや河川などの上流にも設置できればと考えています」

上流で藻類の増殖をいち早く検知できれば、浄水場に到達する前に警戒態勢を敷ける。それは、より効果的で、より人的負担を減らした浄水場の運転管理および水質管理を可能とし、持続可能な水道インフラを構築することを意味している。

野田氏

橋本氏もまた、技術のさらなる広がりを見据えている。このマルチスペクトル顕微鏡が小型化され、ドローンや自律移動ロボットに搭載されれば、広大な水源を縦横無尽にモニタリングする未来も夢ではない。現在は藻類の判別が主だが、将来的には水の中にある様々な物質を判別して、更なる浄水場の運転管理および水質管理の高度化に取り組みたいという。

橋本氏

2026年、この技術は実用化に向けた検証フェーズに移った。自動・連続測定が可能になったことで、水道インフラの持続可能性は飛躍的に高まる。東芝が守ろうとしているのは、単なる水の透明度ではない私たちが当たり前のように得られている「安心な日常」そのものだ。野田氏と橋本氏がそうであったように、異なる専門性が交差したとき、社会課題を解決する真のイノベーションが生まれる

水道水の品質と向き合い続ける二人の技術者の挑戦は、日本のインフラを支える新たな「灯火(ともしび)」になろうとしている。技術者の誇りと情熱が、今後、私たちの蛇口から流れる水を支えていくことに期待したい。

野田氏と橋本氏