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事業所のある町物語 ~東京都府中市~ 日本のモノづくりを支えた郊外都市


事業所のある町物語 ~東京都府中市~ 日本のモノづくりを支えた郊外都市

この記事の要点は…

鉄道が開通したきっかけは多摩川の砂利だった

府中は地形や利便性を生かして日本のモノづくりを支えてきた

東芝は広大な土地を求めて府中に工場を建てた

東京都のほぼ中央に位置する府中市。多くの企業が拠点を置くこの地に東芝が工場を構えたのは1940年のこと。当時、田畑や雑木林が広がっていたこの土地がなぜ日本の産業を支える町のひとつになったのか。府中の歴史からその謎をひも解いてみよう。

100万年前、府中は「海」だった

100万年前、現在の府中市一帯には海が広がっていた。実際、府中市南部を流れる多摩川流域からは浅海に生息する貝の化石が見つかっている。そしてこの多摩川は幾度か流れを変えながら現在の形になった。川の流れが変わったときに土地が削られるため、数メートル以上の高さの異なる平坦な土地ができる。簡単に言えば、府中は階段状に積み重なった土地の上にある、ということだ。

南側は低地、北に進むにつれて標高が高くなる段丘状の府中の土地

南側は低地、北に進むにつれて標高が高くなる段丘状の府中の土地

国府の中心としての「府中」

奈良時代、中央政府から府中に国司が派遣され、武蔵国が形成された。当時の武蔵国は現在の埼玉県、東京都、神奈川県川崎市・横浜市の一部を合わせた広さというほど大きな国で、府中には現在の県庁に相当する役所が置かれた。そして国府の中心ということにちなんで「府中」と呼ばれるようになった。

奈良時代の役所は現在の府中本町駅から大國魂(おおくにたま)神社付近にあったとされ、役人らの住居跡などが神社の東隣から見つかっている

奈良時代の役所は現在の府中本町駅から大國魂(おおくにたま)神社付近にあったとされ、役人らの住居跡などが神社の東隣から見つかっている

武蔵国は重要拠点であったためか、古来、主要道路がいくつか走っていた。例えば飛鳥時代頃につくられた東山道武蔵道路(とうざんどうむさしみち)は武蔵国と現在の群馬県方面を南北につなぐ道路で、幅が12mもある道の両側には側溝が設けられていたという。かつてこの道路は、現在の東芝 府中事業所の一部を南北に走っていたとみられ、現在は府中市をはじめ国分寺市などで遺跡が見つかっている。

また、幕府のあった鎌倉と現在の群馬県とを結ぶ「鎌倉街道」も忘れてはならない道だ。府中事業所の北に位置する国分寺市の市立歴史公園にはかつての鎌倉街道の跡が残されている。

JR武蔵野線沿いに一部だけ残る「旧鎌倉街道」。鎌倉時代の武士たちはこの道を通って鎌倉と群馬方面を行き来した

JR武蔵野線沿いに一部だけ残る「旧鎌倉街道」。鎌倉時代の武士たちはこの道を通って鎌倉と群馬方面を行き来した

「府中御殿」と「甲州街道」

江戸幕府の将軍徳川家康はかねてより鷹狩をしたり多摩川で涼をとったりするため、たびたび府中を訪れた。そこで家康や家臣たちの休息場として「府中御殿」が造営された。鷹狩はレクリエーションではなく、家臣たちの軍事訓練や領地視察といった意味合いが強かった。そのため鷹狩は幕府の支配体制を固める上で欠くことのできない行事であり、その際に利用される「府中御殿」もまた重要な施設と考えられた。

そして府中と江戸幕府との関係を語る上で忘れてならないのが「甲州街道」だ。府中は江戸と甲府を結ぶ中間点にあったこと、そしてこの甲州街道に加えて南北に走る鎌倉街道が交差していたこともあり、旅籠屋や店舗が次々と建てられ、賑わいをみせた。こうした人とモノの活発な往来は明治以降の府中の発展の重要な要素となるのである。


府中は鎌倉時代につくられた鎌倉街道と江戸時代につくられた甲州街道が交差する重要地点であった

府中は鎌倉時代につくられた鎌倉街道と江戸時代につくられた甲州街道が交差する重要地点であった
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