事業所のある町物語 ~東京都府中市~ 日本のモノづくりを支えた郊外都市

2018/10/03 Toshiba Clip編集部

この記事の要点は...

  • 鉄道が開通したきっかけは多摩川の砂利だった
  • 府中は地形や利便性を生かして日本のモノづくりを支えてきた
  • 東芝は広大な土地を求めて府中に工場を建てた
事業所のある町物語 ~東京都府中市~ 日本のモノづくりを支えた郊外都市

東京都のほぼ中央に位置する府中市。多くの企業が拠点を置くこの地に東芝が工場を構えたのは1940年のこと。当時、田畑や雑木林が広がっていたこの土地がなぜ日本の産業を支える町のひとつになったのか。府中の歴史からその謎をひも解いてみよう。

100万年前、府中は「海」だった

100万年前、現在の府中市一帯には海が広がっていた。実際、府中市南部を流れる多摩川流域からは浅海に生息する貝の化石が見つかっている。そしてこの多摩川は幾度か流れを変えながら現在の形になった。川の流れが変わったときに土地が削られるため、数メートル以上の高さの異なる平坦な土地ができる。簡単に言えば、府中は階段状に積み重なった土地の上にある、ということだ。

南側は低地、北に進むにつれて標高が高くなる段丘状の府中の土地

南側は低地、北に進むにつれて標高が高くなる段丘状の府中の土地

国府の中心としての「府中」

奈良時代、中央政府から府中に国司が派遣され、武蔵国が形成された。当時の武蔵国は現在の埼玉県、東京都、神奈川県川崎市・横浜市の一部を合わせた広さというほど大きな国で、府中には現在の県庁に相当する役所が置かれた。そして国府の中心ということにちなんで「府中」と呼ばれるようになった。

奈良時代の役所は現在の府中本町駅から大國魂(おおくにたま)神社付近にあったとされ、役人らの住居跡などが神社の東隣から見つかっている

奈良時代の役所は現在の府中本町駅から大國魂(おおくにたま)神社付近にあったとされ、役人らの住居跡などが神社の東隣から見つかっている

武蔵国は重要拠点であったためか、古来、主要道路がいくつか走っていた。例えば飛鳥時代頃につくられた東山道武蔵道路(とうざんどうむさしみち)は武蔵国と現在の群馬県方面を南北につなぐ道路で、幅が12mもある道の両側には側溝が設けられていたという。かつてこの道路は、現在の東芝 府中事業所の一部を南北に走っていたとみられ、現在は府中市をはじめ国分寺市などで遺跡が見つかっている。

 

また、幕府のあった鎌倉と現在の群馬県とを結ぶ「鎌倉街道」も忘れてはならない道だ。府中事業所の北に位置する国分寺市の市立歴史公園にはかつての鎌倉街道の跡が残されている。

JR武蔵野線沿いに一部だけ残る「旧鎌倉街道」。鎌倉時代の武士たちはこの道を通って鎌倉と群馬方面を行き来した

JR武蔵野線沿いに一部だけ残る「旧鎌倉街道」。鎌倉時代の武士たちはこの道を通って鎌倉と群馬方面を行き来した

「府中御殿」と「甲州街道」

江戸幕府の将軍徳川家康はかねてより鷹狩をしたり多摩川で涼をとったりするため、たびたび府中を訪れた。そこで家康や家臣たちの休息場として「府中御殿」が造営された。鷹狩はレクリエーションではなく、家臣たちの軍事訓練や領地視察といった意味合いが強かった。そのため鷹狩は幕府の支配体制を固める上で欠くことのできない行事であり、その際に利用される「府中御殿」もまた重要な施設と考えられた。

 

そして府中と江戸幕府との関係を語る上で忘れてならないのが「甲州街道」だ。府中は江戸と甲府を結ぶ中間点にあったこと、そしてこの甲州街道に加えて南北に走る鎌倉街道が交差していたこともあり、旅籠屋や店舗が次々と建てられ、賑わいをみせた。こうした人とモノの活発な往来は明治以降の府中の発展の重要な要素となるのである。

府中は鎌倉時代につくられた鎌倉街道と江戸時代につくられた甲州街道が交差する重要地点であった

府中は鎌倉時代につくられた鎌倉街道と江戸時代につくられた甲州街道が交差する重要地点であった

砂利の運搬列車が走った!

明治時代に入ると建築材として砂利の利用が急増し、そこで注目されたのが府中の南側を流れる多摩川の砂利だった。かつて浅海であった多摩川流域の砂利は高品質だったうえ、多摩川は東京の中心部に近く運搬に便利という理由から需要が伸びた。

 

そこで1910年に砂利運搬専用の東京砂利鉄道(国鉄下河原線、現在は廃線)が国分寺と下河原(現在の府中市南町付近)間で開通した。この東京砂利鉄道は初めて府中市内を走った電車であった。これに続いて、多摩鉄道(現在の西武多摩川線)、南武鉄道(現在のJR南武線)も敷設された。

 

次第に「地元民も利用できる電車を」との声が地元住民の中で挙がり、1944年以降には、東芝をはじめとする他社の工場の通勤者用電車の運転も開始された。現在、東芝 府中事業所の北側を走っている公道はこの時につくられた線路の名残を伝えている。

多摩川の砂利を運搬した多摩川砂利鉄道

多摩川沿いに集積された砂利の山

多摩川の砂利を運搬した多摩川砂利鉄道と多摩川沿いに集積された砂利の山
写真提供:府中市

大規模施設の進出と府中工場の建設

大正から昭和初期にかけて、東京中心部の人口増加、土地不足、そして関東大震災の影響を受け、広大な敷地を有する府中には府中競馬場、多摩霊園、府中刑務所、東京農工大学などの大規模施設が次々と建てられた。

 

企業も広大な土地を求め、府中に工場が次々と建設された。日中戦争(1937年)以後、軍製品の需要が増大し、現在の東芝の前身の一つである芝浦製作所においても鶴見工場が手狭になったため新工場の計画が持ち上がったのだ。

 

そして広大な土地が工場に適しているとの理由から府中が工場建設地として選ばれ、1941年に操業を開始した。翌年には南武鉄道(現在のJR南武線)向けの電鉄用接続箱が工場の最初の製品として出荷され、その後は電気機関車、電鉄用品、電熱装置などが生産された。1943年11月には車輌製造部門が分離し、東芝車輌製造所となり、1944年1月には軍需会社として指定を受け、車輛の増産、学徒・徴用者の労務動員などもあり、従業員数は5,000名を超えるようになった。

広大な雑木林であった府中事業所の工場用地

広大な雑木林であった府中事業所の工場用地

1941年に初出荷された南武鉄道向け電鉄用接続箱

1941年に初出荷された南武鉄道向け電鉄用接続箱

戦後、そして変わる府中

戦火をほとんど受けることがなく終戦を迎えた後、東京芝浦電気(1939年に東京電気が芝浦製作所と合併して誕生)と東芝車輌は民需用必需物資・見返り物資などの生産を開始した。1950年には東芝車輛と東京芝浦電気が合併。国鉄の再建や私鉄の復興を受け、工場の生産量は次第に伸び、好況の波に乗った。

 

1954年4月1日、府中町、多磨村、西府村が合併し、「府中市」が誕生した。府中市は政策の一環として企業・工場の誘致を強化し、サントリー武蔵野ビール工場などが建てられ、かつて田畑が広がっていた土地は工場地帯へと様変わりした。府中事業所内でも電鉄用品以外の事業も拡大することで次々と建屋の建設が進み、この頃、現在とほぼ変わらない敷地面積となった。

 

ちなみに1961年には、東芝 府中事業所の住所表記が府中市10000番地から「府中市東芝町1番地」に変更され、「東芝町」の町名は現在も使用されている。

1961年、東芝の名称が町名となった

1961年、東芝の名称が町名となった

現在の府中事業所のシンボル的存在のエレベーター研究塔。1966年にエレベーターの製造が開始された

現在の府中事業所のシンボル的存在のエレベーター研究塔。
1966年にエレベーターの製造が開始された

100万年前は海が広がり、奈良時代以降は武蔵国の中心地、そして江戸時代には将軍が訪れ、人やモノの往来で賑わった府中。近代に入ってからは都市と郊外を結ぶ重要拠点、そして都市部の開発を支える場所としての役割を負った。府中が歩んできた道を振り返ると、この地は独特な地形や豊かな自然を土台にして人々の生活が発展してきた町であり、これらが互いに絡み合うことでモノづくりの町、府中となったと言えるのではなかろうか。

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