人間工学はウェル・ビーイングにつながるのか?~心地よさの先に見える、「うれしさの循環」というエコシステム

2023/02/22 Toshiba Clip編集部

この記事の要点は...

  • 人間工学はモノづくりだけでなく、人間が接点を持つあらゆる製品、環境、システム、サービスにおいて生かされる実践的学問領域
  • 東芝では事業部とデザイン部門が連携し、「人を想う」製品、サービスをつくる
  • 人間工学の本質は、「うれしさ」を循環させていくことにある
人間工学はウェル・ビーイングにつながるのか?~心地よさの先に見える、「うれしさの循環」というエコシステム

新しく椅子を買おうと思ったとき、慎重になる人は多いのではないだろうか。なぜなら「座り心地」は、快適な生活を送る上でとても重要な要素だからだ。持ちやすいマウスなども同様、日ごろよく使うものであるほど、私たちの選択は慎重になる。こういったあらゆる製品は、実は使う側のことを考えて綿密に設計されている。そこで活用されるのが「人間工学」という実践的学問だ。

 

主にモノづくりにおいて使われることが多い言葉だが、人間工学はモノづくりに限らず、働きやすさや生活のしやすさなど、私たちが日常で抱える悩みも解決してくれるものでもあるという。私たちの快適な暮らしにつながる、「人間工学」の可能性とは。東芝CPSxデザイン部で人間工学に携わる二人に迫った。

“使いやすさ”だけじゃない、人との関係性をデザインするのが人間工学

テクノロジーの進歩の恩恵をより多くの人に届けるために、モノやサービスをより人間に合わせて設計する必要があるという考え方が主流となった。それが「人間中心設計」だ。その役割は時代とともに広義になっている。こう話すのは、長年専門領域として人間工学に携わり、大学でも教鞭を執る東芝 CPSxデザイン部の井戸氏だ。

 

株式会社 東芝 CPSxデザイン部 デザイン統括室 フェロー 井戸 健二氏

株式会社 東芝 CPSxデザイン部 デザイン統括室 フェロー 井戸 健二氏

「人間工学は様々な分野に適用されます。椅子やマウスのデザインなどに代表される身体と製品との適合性を考えることは重要な要素ではありますが、それは人間工学のほんの一部です。『カラダ』にフィットするようにモノのデザインを考える身体的な領域もあれば、操作がわかりやすいデバイス、覚えやすい操作画面など、『アタマ』にフィットするようにデザインを考える認知の領域もあります。

 

さらに、組織や社会の設計に適用される領域もあります。例えば、働きやすく、パフォーマンスの向上を考えた勤務シフト、モチベーションを上げる報酬制度、過ごしやすさ、居心地の良さなども含むもの。人間工学は、もっと幅広に、人間と人工物や環境、物事との関係性をデザインする領域なのです」(井戸氏)

 

国際人間工学連合が定める「人間工学の3つの領域」を基に作成

国際人間工学連合が定める「人間工学の3つの領域」を基に作成

さらにデザイン心理学を研究し、「反応のしやすさ」や「覚えやすさ」などの認知的な領域を専門分野とする高橋氏は、AIなどデジタル社会における人間工学の重要性について言及する。

 

「デザイン心理学では、モノやサービスに対する人間の思考や反応が何に基づいているかを科学的に追究します。デジタル化した製品やサービスは内部の仕組みの直接的な理解が難しくなるという側面があるので、人間の心理や認知特性に合わせた操作方法やユーザインターフェイスのデザインが必要になります。

脳の働きを可視化できる技術の進展に伴い、より詳細な心理分析ができるようになってきました。人間工学は、テクノロジーの進化、普及に伴って、カバーする領域はどんどん広がっています」(高橋氏)

 

株式会社 東芝 CPSxデザイン部 デザイン開発部 ユーザインターフェイス担当 スペシャリスト 高橋 梓帆美氏

株式会社 東芝 CPSxデザイン部 デザイン開発部 ユーザインターフェイス担当 スペシャリスト 高橋 梓帆美氏

ここで少し歴史を振り返ろう。人間工学は工業技術の進展と密接に関係し、ヨーロッパでは産業革命の時期に生まれた学問領域と言われている。日本では90年代から普及が進んだ。

 

「日本の高度経済成長期は、大量生産・大量消費が全盛。人間の身体、認知特性などをそれほど考えなくても、製品やサービスがどんどん消費されていました。その後、社会が成熟し、1990年ごろから、『誰でも使いやすい製品、サービス』、いわゆる人間中心設計でないとモノが売れない時代になってきました。ここで、人間工学が一段と注目されるようになったのです」(井戸氏)

 

人間がモノに合わせていた時代から、デザインによってモノを人間に合わせなければならなくなった転換期に、人間工学が台頭したわけだ。井戸氏は「人が関わる以上、すべてのモノ、サービス、システムに人間工学は適用される」と言い切る。そこで存在感を増すのが、人間工学に基づく「人を想うものづくり」だ。

すべての製品・サービスは「人を想うこと」から始まる

井戸氏や高橋氏が所属するCPSxデザイン部は、事業部門と連携してプロジェクトに参画する。社内外との協働、共創によって人間工学の考え方を適用したモノづくりが浸透し始めている。

 

ここまで述べたように、デザインは見た目を美しくする、という一義的な役割にとどまらない。東芝のモノづくりは人間工学に基づくこと、つまり使う人に寄り添うことから始まる。2018年に運転開始した発電所の館内サインデザインのプロジェクトが、その一例だ。

 

人間工学を活用して館内サインをデザインした西名古屋火力発電所7号系列

人間工学を活用して館内サインをデザインした西名古屋火力発電所7号系列

西名古屋火力発電所 7号系列は、新しい発電方式を採用したことにより、従来の設備に比べて年間140万tのCO₂を削減可能にした。デザインチームが、この新たな発電設備の館内サインデザインに一役買った。

 

白、青、レモンイエローといった画期的な配色を採用したことをはじめ、設備の保守を行う人のことを一番に考えた設計を施した。このことが、発電設備と人との関係性を問い直すアイデアとしてグッドデザイン賞を受賞するきっかけとなる。

 

「第一に解決すべき課題は、作業者のヒューマンエラーを防ぐことでした。発電所は広大で類似の設備が並び、保守・点検の対象となる設備や機器を誤認識する懸念があったのです。そこで、館内のサインに人間工学の知見を用いたのです。

 

『人を想うデザイン』を念頭に、事業部と連携し、そこで働く作業員の方々が日ごろどのような導線をたどるのかを綿密に調査しました。その後、『もっとこうなったらいいな』という潜在的なニーズを引き出し、解決策を立案、デザインに落とし込んでいきました。それからできたものを評価いただき、フィードバックいただいたものを改善していくことを繰り返しました」(井戸氏)

 

インタビューを受ける井戸氏

 

発電設備の保守・点検におけるヒューマンエラーを抑制したことはもちろんだが、井戸氏が一番嬉しかったことは他にあった。

 

「課題やニーズをデザイナーが見える化することで、お客様は、ご自身が話されたことがどんどん形になる楽しさを知り、一緒にモノづくりをしている体制が強固になっていきました。さらに「ここで働くことにモチベーションが高まりそうだ」という声も聞かれるようになりました。彼らしかわからない現場のニーズ、彼らが持つエネルギーを引き出せたことが、私たちデザイナーにとって何よりの喜びです。ユーザーや組織の要求や情熱を取り入れたモノづくりプロセスそのもの。それが人間工学の本質なのです」(井戸氏)

 

①調査、②ユーザー要求の定義、③解決案づくり、④評価と、丁寧に顧客要求に向き合い、設計に落とし込んでいった。

①調査、②ユーザー要求の定義、③解決案づくり、④評価と、丁寧に顧客要求に向き合い、設計に落とし込んでいった。

『うれしさの循環』というエコシステムをつくることこそが、人間工学の目指すもの

このような現場で人間工学が実装される例から見えたのは、人間中心の設計思想だ。井戸氏は、「うれしさの循環」というキーワードで、そのイメージを解説する。

 

「館内のサインを導入した発電所で働く方々から、『ここで働くことに誇りを感じる』という感想が寄せられました。働く人の前向きな気持ちは組織力を向上させ、組織やプラントの安定した安全な稼働は地元地域への恩恵ももたらす。これからの人間工学が目指すものは、局所的なデザインにとどまらず、社会や組織全体に良い影響を与えられるようなしくみづくりをしていくことです。つまり、人を想うことで生まれる『うれしさの循環』は、関わる人すべてに影響するエコシステムなのです」(井戸氏)

 

「人を想う」を起点とした製品・サービスで「うれしさの循環」を体現する東芝のデザイン

「人を想う」を起点とした製品・サービスで「うれしさの循環」を体現する東芝のデザイン

高橋氏は、今の時代背景とも重ね合わせて、人間工学の将来の在り方を語る。

 

「これまでに産業革命が大きな節目であったように、不確実性が高まり、ニーズも多様化・複雑化している現代は新たな転換期と言えます。人間が求めるものが変わるたびに環境は変わり、それに合わせた新たな技術が適用されるようになります。

 

時代の変化とともに「使いやすさ」の捉え方も変わってくるので、私たちは人間工学を通して、社会に馴染む技術やシステムを追求していく必要があります。そういう意味では人間工学は、人間の歴史を知っていくことでもあるのです。

 

私が担当しているアプリやWebサイト画面の設計も、部分的に参入するのではなく、事業部と一緒に根本的な課題やニーズを把握し、新たな価値を与えられるようにしていきたいですね」(高橋氏)

 

高橋氏(左)と井戸氏(右)

 

サービスを使用して違和感を持たれないことはもちろん、「そうそう、これがしたかった」という潜在的なニーズを引き出すことが重要なのだと、井戸氏と高橋氏は口を揃える。新たな技術の実装のため、アップデートは必須だ。

 

「人を想うデザインでうれしさを循環させていくこと。これをデザイン部門全員でできるようにしていきたいと思っています。そのために、社内外に人間工学の概念や事例を紹介し、次世代の育成にも注力しています。

 

これは、デザイン部門に限った話ではありません。例えば、誰かがうれしい製品やサービスを構成するサプライチェーンの中に無理が生じている箇所があったとします。そのようなデザインは長続きせず、うれしさは循環しないですよね。『人と、地球の、明日のために。』社内をはじめお客様や協力してくれる社外パートナー、皆が幸せになるシステムをつくることこそが、私たち東芝が目指すべきところでしょう」(井戸氏)

 

「うれしさの循環」は人間から始まり、人間に還元される。永続的な連環の先に、人々の笑顔をつくっていく。

 

笑顔で談笑する井戸氏(左)と高橋氏(右)

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