草創期から現在を探る! 電気にまつわる5つのトリビア
2018/07/11 Toshiba Clip編集部
この記事の要点は...
- 実用化にこぎ着けたエジソンの電球には京都の竹が用いられていた!?
- 糸魚川静岡構造線で周波数が50Hzと60Hzに分かれている理由とは?
- 電気は「財物」? 1910年代、法曹界に議論の嵐が巻き起こった!
今からちょうど140年前の1878年のこと。日本で初めて電灯に明かりがついた。この点灯に関わったのは、工部大学校(※)の教授ウィリアム・エドワード・エアトンとその教え子たち。燃焼による炎の「ともしび」から、電気による明かり「電灯」へと転換するきっかけとなった出来事であった。
※現在の東京大学工学部
この教え子のうちの一人が東芝の創業者の一人である藤岡市助。日本の電気事業に多大な影響を与えた人物だ。今回、藤岡らが築き上げた電気事業の草創期を探り、意外と知らない電気の秘密に迫ろう。
1.1問も解けないのに満点をつける!?
日本で初めてアーク灯と呼ばれる電灯を点灯させたエアトンは一体どのような人物だったのだろうか。
エアトンは1873年、工部大学校の前身である工部寮に赴任。明治政府が工学教育の振興策に力を入れる中、「お雇い外国人」としてイギリスから招へいされた優秀な教授陣のうちの一人だった。
エアトン
エアトンの講義は厳格で、知識を学ぶだけでなく自ら考える能力を強く求めたといわれている。あるとき、誰でも解答できそうな簡単な問題数個と、授業でも教えていない難問からなる物理学の試験が行われたことがあった。
藤岡は難問だけに集中したものの解けないまま答案を提出。しかしエアトンはこれに満点を与えた。
「教えたことは誰もが分かっているから試験をする必要はない。教えないこともどれだけ理解しうるかを試すのが真の試験である」、「点数の争いなどスクールボーイの仕事だ」というのがエアトンの考えだったのだ。
2.エジソンの白熱電球には京都の八幡竹が!
エアトンや藤岡らの点灯に始まったアーク灯は、実はその光の強烈さから人々からあまり歓迎されず、1840年ごろからアーク灯よりも人の目に優しい白熱電球の開発が期待されるようになる。
白熱電球の一つ「炭素電球」の実用化に世界で初めてこぎ着けた人物の一人がトーマス・エジソン。だが、1879年、エジソンが炭素粉末とタールを材料にしたフィラメントを用いて点灯させたとき、たった2時間しか持続しなかった。そこで彼は安定性のあるフィラメントの材料を探し求めた。
1年後、エジソンは最も優れた材料を発見した。それは京都の八幡竹だ。後にエジソンは「少なくとも6,000種の植物をテストし、最適なフィラメント材料を見つけるべく、世界中をくまなくあさった」と語っている。
川崎にある東芝スマートコミュニティセンターには同じ石清水八幡宮から譲り受けた竹が植えられている
日本初の炭素電球は、藤岡市助が12個の竹フィラメントを用い完成させた。エジソンが京都の八幡竹を見つけてから、ちょうど10年後の1890年のことだった。
日本初の炭素電球
3.なぜ東西で50Hzと60Hzに分かれているの?
日本では糸魚川静岡構造線を境界線として、周波数が関東方面で50Hz、関西方面で60Hzとなっている。それには、藤岡市助が大きく関わっている。
東西で周波数が異なる
1893年、電力需要が増加する中、日本最初の電力会社である東京電灯株式会社は、浅草に大発電所の建設を始めた。そのときに発電機を発注した人物が藤岡だった。
発注先はドイツのアルゲマイネ社。ドイツでは周波数は全て50Hzであったため、関東地方には50Hzが広がっていった。
一方の関西地方では、1896年、大阪電灯株式会社が米国のゼネラル・エレクトリック社から発電機を購入。その発電機の周波数は60Hzだった。そのため、西側では60Hzとなっている。
4.長岡半太郎と電球製造の意外な関係
「中心核のある原子模型」を提唱したことで知られる物理学者・長岡半太郎。学校で習ったことのある方も多いだろう。
右から、長岡半太郎、1932年にノーベル化学賞を受賞しているアメリカの化学者・物理学者であるアーヴィング・ラングミュア、東芝の前身・東京電気社長の山口喜三郎
彼の教え子の一人が新荘吉生(しんじょうよしお)。東芝の前身・東京電気で技師長を務めた人物である。長岡は、東京電気で電球の研究にいそしむ新荘に助言を与えることも多かったという。その中で生まれたのが、酸化ウランを含んだ透明ガラスを使用した「カナリア電球」だ。
カナリア電球
エジソンが実用化に導いた炭素電球は、1910年頃から消費電力・有効寿命がより高性能の「タングステン電球」に次第に置き換わっていく。カナリア電球は、タングステン電球の種類の一つで、ウランガラスが紫外線や青色光を吸収するため、眼精疲労を減らす目に良い電球として販売された。
長岡は藤岡とも親交があり、藤岡について「電気工学のみならず、経済界にあっても先覚者の一人だったと思います」と述べている。
5.電気は財物か否か
刑法245条には「この章(第36章窃盗及び強盗の罪)の罪については、電気は財物とみなす」とある。刑法にこの条文が入った背景には、とある裁判が……。
1910年、ある需要家が架線から直接電力を引いて勝手に使用したとして、横浜地方裁判所に提訴された。一審は有罪。二審は無罪となった。
問題は、刑法にある「他人の財物を摂取したるものは窃盗の罪」という記述。この「財物」に、目に見えない電気が含まれるかどうかが議論となったのだ。
この二審のときに鑑定人となったのが田中舘愛橘(たなかだてあいきつ)という物理学者。英語塾における藤岡の同窓生であり、何度か論争をするものの、藤岡のよき理解者だった。
そして現在の最高裁判所にあたる大審院では有罪となる。この判決は法曹界に論争を巻き起こし、財物は有体物に限るか、もしくは管理可能な限り、電気など無体物を含むか、争いとなったが、現在では後者が通説的地位を占めている。
今では当たり前に使用している電気。その内奥は、現在の私たちの生活の基盤を作り上げた草創期を探るからこそ照らし出すことができるのではないだろうか。私たちが見つめる光には、今でも藤岡らの精神が息づいているのである。